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OTARU HISTORY

小樽の歴史
江戸から現代へ
北の港町が歩んだ道

縄文・アイヌ / 江戸 / 明治開拓 / にしん漁黄金期 / 北のウォール街 / 戦後 / 運河保存 / 観光再生

先史〜17世紀 Chapter 01

縄文・アイヌの時代
「オタル・ナイ」——砂浜の川の民

小樽という地名は、アイヌ語の「オタル・ナイ(砂浜の中の川)」に由来する。 この地は遥か縄文の昔から人が暮らしてきた、北の大地の玄関口だった。

小樽周辺では、縄文時代後期(約3000〜4000年前)の遺跡が複数確認されており、 人々が海の幸を糧に暮らしていたことが分かっています。 朝里川流域の遺跡からは土器・石器が出土しており、道内でも有数の縄文文化圏のひとつでした。

アイヌ民族にとって、小樽(オタル・ナイ)は重要な漁場でした。 現在の小樽内川(おたるないがわ)がその「砂浜の中の川」に該当するとされています。 春には豊富なニシン(アイヌ語でカカ)が海岸に押し寄せ、秋にはサケが川をさかのぼる—— この豊かな自然環境がアイヌの人々を惹きつけ、高島・手宮・忍路(おしょろ)など 小樽周辺各地に集落が形成されました。

高島澗(たかしまわん)とアイヌ交易

小樽の西側に位置する高島(現・高島地区)は、アイヌと和人が交易を行う「場所」として 早くから注目された場所です。海に突き出た地形は天然の良港を形成し、 和人の商船が寄港しやすい条件を備えていました。 17世紀初頭には既に松前藩との交易拠点として機能していたと考えられており、 小樽の港町としての歴史はこの頃から始まります。

AINU HERITAGE

「オタル」という響きには、砂浜と川と海が交わる場所の記憶が刻まれています。アイヌの人々は単なる「先住民」ではなく、この地の自然と深く共生した高度な文化を持つ民でした。小樽の歴史を語るとき、私は必ずこの根源から始めることにしています。

アイヌの人々が培った海洋知識、漁法、地形の読み方は、のちに和人・本州からの移住者たちにも受け継がれ、 小樽の漁業文化の基盤となっていきます。 忍路湾(おしょろわん)周辺にはアイヌの祭祀遺構も残っており、 この地が単なる経済拠点ではなく、精神的な意味を持つ聖地でもあったことを示しています。

17〜19世紀前半 Chapter 02

江戸時代——松前藩と場所請負制
北前船が運んだ小樽の富

江戸幕府の北方経営の中で、小樽は松前藩の支配下に入り、 「場所請負制」という独特のシステムによって和人の漁業が拡大した。 北前船が結ぶ海上交易路が、小樽を北海道の玄関口に押し上げていく。

松前藩と「場所請負制」

江戸時代初期、北海道(蝦夷地)の和人の活動を統括したのは松前藩です。 松前藩は家臣に蝦夷地各地の「商場(あきないば)知行」を与え、 特定の場所でのアイヌとの交易独占権を認めました。 18世紀に入ると、この権利を商人に請け負わせる「場所請負制」が一般化し、 高島場所・忍路場所・余市場所などが設置されました。

小樽内場所(おたるないばしょ)は特に重要な漁場として、 ニシンをはじめとする海産物の産地として本州商人に注目されました。 請負商人たちは出稼ぎ漁師(ヤン衆)を多数連れ込み、 アイヌの人々を強制的に労働に従事させることも多く、 これがアイヌ社会の疲弊と人口減少を招いた一因となっています。

北前船と日本海交易ルート

18世紀後半から19世紀にかけて、北前船(きたまえぶね)が本格的に蝦夷地と本州を結ぶようになります。 北前船は越前・加賀・越後・瀬戸内地方などの商人が運航する廻船で、 大坂(現・大阪)を起点に日本海を北上し、小樽・松前・江差などの港に寄港しました。

小樽から積み出されたのは主にニシンの干物(身欠きにしん)・にしん粕(肥料)・昆布・鮭・数の子など。 本州からは酒・米・木綿・塩・陶磁器などが持ち込まれました。 この交易によって小樽の浜は活気づき、廻船問屋・蔵元・酒屋などが集積する港町の原型が形成されます。

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北前船の交易は単なる物の流通にとどまらず、本州の文化・技術・情報を北海道にもたらしました。小樽に今も残る「住吉神社」はその象徴的な遺産で、北前船の船主や廻船問屋が信仰した航海の守り神です。港の歴史を知ることは、小樽の文化の豊かさを知ることでもあります。

幕府の直轄地化と道路建設

ロシアの南下政策を警戒した江戸幕府は、1799年(寛政11年)に東蝦夷地を直轄化し、 1807年(文化4年)には西蝦夷地(小樽周辺を含む)も直轄化します。 この時期、幕府の命を受けた探検家・松田伝十郎らが小樽周辺を踏査し、 小樽から高島・余市方面への「夷地(えぞち)路」の整備が進められました。 この道路が後に主要街道となり、小樽の陸上交通の基盤を作りました。

1868〜1880年代 Chapter 03

明治開拓と鉄道の時代
北海道の玄関口として急成長

明治新政府による北海道開拓が始まり、小樽は北海道全体の物資集積港として 急速に発展する。1880年、北海道初の鉄道が手宮に開通し、 小樽の役割はさらに重みを増した。

開拓使と小樽の役割

1869年(明治2年)、明治政府は北海道開拓のための行政機関「開拓使」を設置。 翌1870年には小樽に開拓使の出張所が置かれます。 当時の日本にとって、広大な北海道を開拓するためには 本州から大量の物資・人員を送り込む必要があり、 その玄関口として小樽港が最重要拠点に選ばれました。

開拓使は小樽に港湾施設の整備を進め、1873年(明治6年)には 本格的な防波堤・桟橋の建設に着手。 これにより大型船が入港可能となり、開拓物資の荷揚げが効率化されました。 この時期、本州各地からの移住者が急増し、小樽の人口は急速に膨らんでいきます。

北海道初の鉄道——手宮線の開通(1880年)

1880年(明治13年)11月28日、北海道初の鉄道「官営幌内鉄道」(手宮〜幌内間)が開通します。 手宮(現・小樽市手宮)を起点とし、幌内炭鉱(現・三笠市)まで延長60kmを結ぶこの路線は、 石炭を小樽港まで運ぶことを最大の目的としていました。

石炭は当時の産業革命を支える最重要エネルギー源であり、 幌内・空知地方の豊富な石炭資源を港まで運び出す輸送インフラの整備が急務でした。 手宮線の開通により、石炭の積み出し量が飛躍的に増大し、 小樽港は石炭積出港として北海道経済の要となっていきます。

1869 開拓使設置
小樽出張所開設
1873 港湾整備
防波堤建設着手
1880 北海道初の
鉄道・手宮線開通
1882 開拓使廃止
函館・札幌・根室県
1893 小樽港
第一期改修完成

石炭と小樽——産業港湾都市の確立

幌内・夕張・空知炭田の石炭が鉄道で小樽に集まり、 さらに船で本州・海外へと輸出される——このルートが確立したことで、 小樽は「北海道の物流中枢」としての地位を不動のものにしました。 1893年(明治26年)には港の第一期改修工事が完成し、 年間取扱物資量は急増。人口も1万人を超え、本格的な都市としての歩みを始めます。

この時期には北海道庁(1886年設置)の各種機関も小樽に置かれ、 行政・商業・港湾の三機能が集積する北海道最大の都市として発展していきます。 「小樽は北海道の首都」と称されたのは、この頃のことです。

1880年代〜1920年代 Chapter 04

にしん漁の黄金期
春の海が銀色に染まった時代

毎年春、小樽湾と積丹半島の沿岸にニシンの大群が押し寄せた。 海が銀色に輝くほどの豊漁——この「鰊(にしん)景気」が 小樽と北海道に空前の繁栄をもたらした。

ニシン漁の仕組み——ヤン衆と鰊御殿

にしん漁は3月末から5月初旬の短い期間に集中します。 漁の最盛期には、本州(越後・東北・北陸など)から大量の出稼ぎ漁師「ヤン衆」が 小樽・積丹・余市・石狩の浜へと集結しました。 ピーク時のヤン衆は数万人規模ともいわれ、浜辺は活気に満ち溢れていました。

漁場の親方(網元)は巨大な収益を得て、豪壮な邸宅「鰊御殿(にしんごてん)」を 各地に建設しました。現在も小樽市祝津地区に残る「旧田中酒造番屋」や 「旧青山別邸」(現・にしん御殿 小樽貴賓館)は、当時の繁栄を今に伝える貴重な遺構です。 鰊御殿は単なる豪華住宅ではなく、網の保管・加工場・ヤン衆の宿舎を兼ねた 漁業総合施設でもありました。

にしん粕が変えた農業——日本全国への波及効果

ニシンの加工品の中でも特に重要だったのが「にしん粕(かす)」です。 ニシンから油を搾り取った残りかすは、優れた農業用肥料(〆粕・絞り粕)として 本州全土で需要が高まりました。 特に近畿・四国・中国地方の綿花・藍・タバコ栽培の農家に重宝され、 「蝦夷物」の代名詞として流通しました。

この肥料需要が北前船交易の拡大をさらに促進し、 小樽——日本海——大坂という経済ルートを通じて全国の農業生産性向上に寄与するという 壮大な経済連鎖が生まれていたのです。

資源の枯渇——輝きの終わり

しかし、この繁栄には持続可能性がありませんでした。 乱獲と海況変化によってニシンの資源量は急速に減少し、 1900年代(明治後半)から漁獲量は下降線をたどります。 1910年代(大正初期)にはすでに往時の半分以下となり、 1950年代にはほぼ壊滅的な状態となりました。 かつて春の海を染めた銀色の輝きは、もはや戻ってきていません。

HERRING LEGACY

にしん漁が消えて久しいですが、その遺産は小樽の街並みに生き続けています。石造りの倉庫、北前船の商人が持ち込んだ文化、祝津の浜に立つ鰊御殿——これらすべてが「ニシン景気」という大きな波が残した証です。歴史を大切にするとは、こうした先人たちの暮らしに思いを馳せることだと、私は考えています。

小樽の成功体験はニシンに象徴されますが、同時に「単一資源への依存」の危うさも教えてくれます。 一次産業の盛衰と地域経済の関係を学ぶとき、私は必ずにしん漁の歴史を思い返します。 今日の小樽再生を考える上でも、この教訓は色あせることなく輝いています。

1900〜1930年代 Chapter 05

北のウォール街
銀行と金融が集積した小樽の絶頂期

にしん漁・石炭・海運で蓄積された巨大な富は、 やがて金融機関として小樽に結晶した。 明治末から大正にかけて、北海道の経済は小樽を中心に動いていた。

明治末から大正時代にかけて、小樽には北海道最多の金融機関が集積します。 最盛期には23もの銀行・金融機関が小樽市内に拠点を構えており、 北海道の産業・貿易・農業の資金調達はすべて小樽を経由しました。 この状況が「北のウォール街」という異名を生みました。

日本銀行小樽支店——北海道金融の象徴

その象徴的存在が日本銀行小樽支店(1912年竣工)です。 辰野金吾の弟子・長野宇平治が設計したネオバロック様式の壮麗な建築は、 当時の小樽が「北海道の金融首都」であることを内外に示す建物でした。 現在は「日本銀行旧小樽支店 金融資料館」として一般公開され、 年間を通じて多くの観光客が訪れています。

主要金融機関の集積

  • 北海道拓殖銀行(1899年設立)——北海道の産業振興を使命とした特殊銀行
  • 三菱銀行小樽支店(現・三菱UFJ銀行)——明治財閥系の拠点
  • 住友銀行小樽支店——大阪財閥の北海道進出拠点
  • 第一銀行小樽支店——渋沢栄一系の大手銀行
  • 北海道銀行(現在も存続)——地域金融の中核

これらが集まる色内大通り(現・金融資料館通り)は、 ルネサンスやバロック様式を取り入れた石造り・煉瓦造りの建築が立ち並び、 まさに「北のウォール街」の景観を形成していました。 この石造り建築群の多くが今日も残り、小樽を代表する観光資源となっています。

なぜ小樽に金融が集中したか

その理由は明確です。当時の北海道は石炭・水産・農業の急成長産業を抱えており、 その資金調達を一手に担う拠点が必要でした。 鉄道と港湾を持ち、全道の物資が集まる小樽は、 情報・資金・人が集積する最適地だったのです。 これは今日のフィンテック企業が東京・大阪に集積するのと同じ論理—— 物流・情報・信用が交差する場所に金融は生まれます。

1914〜1922年 Chapter 06

小樽運河の誕生
物流の動脈として掘られた水路

大正11年(1922年)に完成した小樽運河は、 港の沖合に停泊する船から艀(はしけ)で物資を運び込む 荷役作業を効率化するために建設された。これは埋立地に掘った人工水路だ。

明治後半から大正にかけて、小樽港の取扱貨物量は急増し続けていました。 しかし当時の船は大型化が進んでおり、港の水深が足りず直接岸壁に横付けできません。 そこで沖合に錨を下ろした大型船から、小型船(艀・はしけ)で物資を岸に運ぶ 「艀作業」が行われていました。

この荷役作業を合理化するため、1914年(大正3年)に着工し、 1922年(大正11年)に完成したのが小樽運河です。 海岸を約20m沖合に埋め立てて作った幅約40mの人工水路で、 全長1.1kmにわたって石造りの倉庫群が建ち並びました。 かつての賑わいは、石炭・水産物・穀物を満載した艀が 運河を行き交う情景から生まれていたのです。

石造り倉庫群の役割

運河沿いに立つ石造りの倉庫は、単なる倉庫ではありませんでした。 これらの建物は地場の安山岩(小樽軟石)を主な建材とし、 防火・防湿・保冷の機能を兼ね備えた先進的な保冷倉庫でした。 夏でも内部は涼しく保たれ、水産物・食品・酒類の貯蔵に最適でした。 現在の運河沿い倉庫はレストラン・ビール醸造所・博物館などに転用されており、 往時の面影を伝えながら新たな役割を担っています。

1930〜1950年代 Chapter 07

戦中・戦後の小樽
軍港化・空襲・復興

1930年代の軍国主義化と太平洋戦争は小樽の経済・社会に大きな打撃を与えた。 それでも市民は戦後の復興に立ち上がり、 新たな産業・教育・文化の基盤を築き直していった。

1930年代に入ると、軍需物資の輸送拠点として小樽港の重要性がさらに高まりますが、 同時に民間の貿易・産業は統制経済の下で自由を失っていきます。 第二次世界大戦末期(1945年)には、小樽にも空襲の脅威が及び、 艦砲射撃を受けた地域もありました(7月14〜15日の北海道空襲)。 港湾施設や市内の一部が被害を受けましたが、東京・大阪などと比べれば 市街地の壊滅的破壊は免れています。

戦後の経済復興と新産業の誕生

終戦後、小樽は引き揚げ者・復員兵を受け入れながら急速な復興を遂げます。 1950年代には小樽の人口が18万人を超え、戦後最大規模に達します。 水産加工・ガラス工芸・硝子製品・機械工業など多様な産業が育ち、 小樽大学(現・小樽商科大学)を中心とした商業・経済教育も盛んになりました。

特筆すべきは小樽のガラス工業の発展です。 元々は漁業用のガラス浮き球(漁網に使うガラス製フロート)製造から始まったガラス産業は、 戦後の生活用品需要の高まりの中で多様化し、 やがて小樽を代表する地場産業へと成長していきます。

1960〜1970年代 Chapter 08

産業転換と人口減少
港町が直面した静かな危機

高度経済成長期を迎えると、石炭から石油へのエネルギー転換、 コンテナ化による港湾機能の再編が小樽の地位を揺るがし始めた。 人口は1960年代をピークに減少へと転じていく。

1960年代の「エネルギー革命」は小樽に直撃しました。 石炭から石油・天然ガスへの急速な転換により、 空知・夕張の炭鉱が相次いで閉山。 石炭積出港として繁栄した小樽港の役割は急激に低下し始めます。

加えて、コンテナ輸送の普及により、全国の港湾は大型コンテナ船に対応した 近代的埠頭を整備した港(苫小牧・室蘭など)に貨物を奪われていきました。 小樽港の取扱貨物量は減少を続け、かつて「北海道最大の港」の座は 苫小牧に明け渡されることになります。

人口流出と市街地の空洞化

産業の衰退は人口流出を招きます。1964年(昭和39年)に約20万人に達した小樽市の人口は、 1970年代以降急速に減少し始め、 かつて賑わった中心商店街は「シャッター街」へと変貌していきました。 若者は就職機会を求めて札幌・東京へと流出し、 残された中心市街地には高齢化が進んでいきます。

この「失われていく小樽」の危機感こそが、のちの運河保存運動を生んだ 最大の動機でもありました。市民が「このままではいけない」と立ち上がったのです。

1973〜1986年 Chapter 09

運河保存運動
市民が歴史を守った13年間の闘い

道路拡幅計画によって小樽運河を全面埋め立てる計画が持ち上がった時、 市民たちが声を上げた。この闘いは日本の市民運動史に残る 歴史的な出来事となった。

1960年代後半から70年代にかけて、小樽市は道路渋滞解消のため 小樽運河を全面埋め立てて道路を建設する計画を推進していました。 当初は地元経済界も支持していましたが、1973年(昭和48年)、 建築家・歴史研究者・市民有志が「小樽運河を守る会」を結成。 近代化の名のもとに歴史的資産が失われることへの反対運動が始まります。

13年間の粘り強い闘い

市民と行政の間で激しい議論が繰り広げられた末、 1986年(昭和61年)に妥協案として「運河の半分(南半分約480m)を残す」という 決定が下されました。全面保存を求めた運動からすれば不完全な結果でしたが、 残された運河と石造り倉庫群が現在の観光小樽の核心となっていることを考えれば、 この保存運動の意義は計り知れません。

この運動が示したことは大きい——市民が声を上げれば、まちの未来は変えられる。 行政の決定に対して、市民が組織的に、粘り強く、建設的な代替案を示しながら 運動を続けた13年間は、小樽の民主主義の歴史における輝かしい一頁です。

CIVIC LEGACY

私が政治家を志した理由のひとつに、この運河保存運動の精神があります。市民一人ひとりの声が集まれば、まちは変わる。政治家の役割は、その声を形にすることだと信じています。小樽の歴史は、市民の力で作られてきた。これからもそうあるべきです。

1986〜2010年代 Chapter 10

観光都市としての再生
運河・ガラス・オルゴールが生んだ小樽ブランド

運河保存決定を機に、小樽は「歴史的景観を活かした観光まちづくり」へと 大きく舵を切った。ガラス工芸・オルゴール・スイーツが融合した 「小樽ブランド」が全国に広まっていく。

1986年の運河部分保存決定を受け、小樽市は老朽化した石造り倉庫の 活用方策を模索し始めます。 1987年(昭和62年)にオープンした「小樽運河食堂」(現在の形式の嚆矢)や、 1988年の運河沿いの景観整備事業を契機に、 倉庫を改修したレストラン・ショップ・ミュージアムが次々と誕生しました。

ガラスとオルゴール——地場産業の観光化

戦後から続く小樽のガラス工芸産業が観光と結びつき、 1980年代後半から「小樽ガラス」として全国にブランドを確立します。 堺町通りに並ぶガラス専門店「北一硝子」「小樽ガラス工房」などが 観光の目玉となり、ガラス細工の体験工房は修学旅行生・カップル・家族連れに人気となりました。

また、1987年(昭和62年)に開店したオルゴール堂(小樽オルゴール堂)は、 石造り倉庫を活用した観光施設として大きな成功を収め、 「小樽=オルゴール」というイメージを全国に広めました。

ルタオとスイーツの聖地

1998年(平成10年)創業の「ルタオ(LeTAO)」は、 二層仕立てのチーズケーキ「ドゥーブルフロマージュ」で全国的な人気を獲得し、 小樽を「スイーツの聖地」として確立する大きな役割を果たしました。 ルタオの成功に続き、北菓楼・六花亭・ポールボキューズなど多くの菓子・食品ブランドが 小樽に拠点を置き、食の観光スポットとしての地位を固めました。

訪日外国人と小樽——国際観光地へ

2000年代後半からのインバウンド観光ブームの中で、 特に中国・台湾・韓国・香港からの観光客が急増しました。 1998年公開の中国映画「情書(Sway)」が小樽を舞台としたことが大きく、 台湾・香港などの中華圏で小樽の知名度が一気に高まりました。 2010年代には年間1000万人を超える観光客が小樽を訪れるまでになっています。

2020年代〜 Chapter 11

現代の小樽と未来へ
人口減少・北海道新幹線・次の100年

かつて20万人を誇った小樽市の人口は2020年代に10万人台を割り込んだ。 しかし北海道新幹線延伸という新たなチャンスを前に、 小樽は再び「次の姿」を模索している。

2023年現在、小樽市の人口は約11万人。 ピーク時(1964年・約20万人)から半分近くに減少し、 高齢化率も30%を超えています。 中心市街地の空洞化・学校統廃合・地域医療の維持が喫緊の課題です。

北海道新幹線延伸(2030年度予定)

2030年度の開業を目指す北海道新幹線(新函館北斗〜札幌延伸)に伴い、 新幹線が小樽市内(余市経由)を通過することが確定しています。 駅が設置される余市・小樽周辺への波及効果に期待が集まる一方、 「素通り」されるリスクへの対応も急務です。 小樽固有の歴史・文化資産をいかに磨き上げ、 新幹線の乗客を「来たい」と思わせるかが問われています。

中村よしひろが考える小樽の未来

私が市議会議員として取り組む課題は、まさにこの「次の100年の小樽」を どう設計するかです。歴史が教えてくれることは、 小樽は常に「外からの力」と「内なる資源」を組み合わせて発展してきたということ。

  • 地域医療の維持——高齢化が進む中で、安心して暮らせるまちの基盤を守る
  • 観光産業の深化——単なる通過型観光から、小樽に長く滞在したくなる体験型観光へ
  • 移住・定住促進——歴史ある街並みと自然環境を活かし、新しい住民を迎える
  • 若者の雇用創出——デジタル産業・クリエイティブ産業の誘致で新たな働き場を生む
  • 歴史的景観の保護と活用——石造り建築・運河・鰊御殿を次世代に引き継ぐ

小樽の歴史を振り返ると、この街は何度も危機を乗り越えてきました。 にしん漁が消え、石炭が途絶え、港の役割が変わっても—— それでも小樽は生き続けてきた。 市民の力と、歴史への誇りと、次世代への責任感が、 この街を支えてきたのだと信じています。

MESSAGE FROM YOSHIHIRO

小樽は必ず蘇ります。歴史を知ることで、私たちは「小樽がどんな街であるか」を改めて発見できます。そしてその発見が、次の一手を生む力になります。私は小樽生まれの小樽育ち。この街への愛情と責任を胸に、市議会で精一杯働き続けます。

中村よしひろ

中村よしひろ(なかむら よしひろ)

小樽市議会議員|1972年小樽市生まれ

地域医療の創生・医療承継支援・まちづくりを中心に活動。生まれ育った小樽への深い愛情を持ち、地域の歴史と未来を結ぶ政策を推進しています。