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小樽の歴史

北のウォール街・小樽——明治の金融都市の栄光と記憶

色内通りに立つと聞こえてくる足音

私は時々、仕事の合間に色内通りを歩きます。日本銀行旧小樽支店の前に立ち、重厚な石造りの壁を見上げるとき、不思議な感覚に包まれるのです。耳を澄ますと、革靴の足音、人力車の車輪、電報を届ける少年の走る音——明治・大正の小樽の喧騒が、どこからか聞こえてくるような気がしてなりません。

皆さんは、小樽が「北のウォール街」と呼ばれていたことをご存じでしょうか。若い世代の方には、少しピンとこない呼び名かもしれません。しかし、かつてこの色内・堺町界隈には、二十を超える銀行の支店や本店が建ち並び、北海道経済の心臓として鼓動していたのです。

今日はそんな、少し誇らしくて、少し切ない、小樽の黄金時代の記憶について、皆さんと一緒に振り返ってみたいと思います。

なぜ小樽に「北のウォール街」が生まれたのか

そもそも、なぜ札幌でも函館でもなく、小樽に金融街が形成されたのでしょうか。答えは、港にあります。

明治新政府の北海道開拓にあたり、本州と北海道を結ぶ物流の玄関口として選ばれたのが小樽港でした。石炭、海産物、木材、そして米や雑貨——あらゆる物資が小樽を通って出入りしたのです。特に空知の石炭を運び出す拠点として、小樽港の役割はとてつもなく大きなものでした。

物が動けば、お金が動きます。お金が動けば、それを扱う銀行が必要になります。こうして小樽には、日本銀行、第一銀行、三井銀行、三菱銀行、北海道銀行(旧)、安田銀行など、当時の日本を代表する金融機関が続々と支店を構えていきました。

港があり、物流があり、商いがあり、そして金融が集まる。小樽の繁栄は、決して偶然ではありませんでした。地理と時代と人の努力が重なって生まれた、必然の歴史だったのです。

数字で見る、明治・大正の小樽の底力

当時の小樽がどれほどの力を持っていたか、いくつかの数字でご紹介します。

  • 大正9年(1920年)の国勢調査で、小樽市の人口は約10万8千人。これは当時の札幌(約10万2千人)を上回り、北海道で最も人口の多い都市でした。
  • 最盛期には、港から輸出される石炭の量は年間数百万トンに及び、全国有数の積出港として機能していました。
  • 色内・堺町エリアには、銀行だけでなく、商社、海運会社、保険会社、新聞社が密集。わずか数ブロックの中に、北海道経済の中枢が凝縮されていたのです。

私はこの数字を知ったとき、改めて胸が熱くなりました。先人たちは、ただ便利な土地に住んでいたのではありません。寒さと雪と波に向き合いながら、港を築き、道を拓き、建物を建て、信用を積み重ねてきた。その血と汗の結晶が、「北のウォール街」という誇り高い呼び名だったのです。

銀行建築が今も語りかけてくるもの

繁栄の時代は、残念ながら永遠には続きませんでした。戦後の経済構造の変化、石炭から石油へのエネルギー転換、物流ルートの変化——小樽を取り巻く環境は大きく変わり、金融街としての機能も次第に失われていきました。

しかし、です。私がいつも市民の皆さんにお伝えしたいのは、小樽には「石で残された記憶」があるということです。

日本銀行旧小樽支店(現・金融資料館)、旧三井銀行小樽支店、旧安田銀行小樽支店、旧北海道銀行本店……これらの建物は、ただ古いから価値があるのではありません。設計したのは、辰野金吾、長野宇平治といった日本建築史に名を刻む巨匠たちです。東京駅を設計した辰野金吾の弟子たちが、札幌ではなく小樽に腕を振るったという事実が、当時の小樽の格を物語っています。

建物は、無言のうちに歴史を語ります。あの石の重さ、柱の太さ、天井の高さ——それらすべてが、「ここは特別な場所だった」と、現代の私たちに教えてくれているのです。

歴史を「活かす」とはどういうことか

ここからは、市議会議員としての私の思いを少しお話しさせてください。

小樽は観光都市として全国に知られています。年間の観光入込客数は、コロナ禍前には700万人を超えていました。これは素晴らしいことです。しかし一方で、私は時々こんな問いを自分に投げかけます。

「私たちは、小樽の歴史を『見せて』いるだろうか。それとも『活かして』いるだろうか」

観光客の皆さんが銀行建築の前で写真を撮る。それはもちろん嬉しいことです。けれど、それだけで終わってしまってはもったいない。私は、歴史的建造物を次の三つの観点から活かしていくべきだと考えています。

  • 学びの場として——小中学生がふるさとの歴史を実地で学べる仕組みづくり。教科書の中の歴史ではなく、歩いて触れられる歴史として。
  • 創造の場として——若いクリエイターや起業家が、歴史的建造物をオフィスやアトリエとして活用できる支援制度の充実。古い建物に新しい息吹を。
  • 対話の場として——市民と観光客、若者と高齢者が交わる文化的な拠点としての活用。歴史は、未来を語る場所にこそ宿ります。

保存と活用は対立する概念ではありません。使われ続ける建物こそが、本当の意味で「残る」のです。空き家のまま朽ちていくのが最も悲しい選択ではないでしょうか。

百年先の小樽へ、私たちができること

私がなぜ小樽を愛するのか。それは、この街が「挑戦の記憶」を持っているからです。何もなかった海岸線に、先人たちは港を築きました。北の端に、金融街を創り上げました。その気概、その誇り、その志——それらは色内通りの石造りの壁の中に、今も確かに息づいています。

人口減少、少子高齢化、経済の縮小。小樽が今、厳しい課題に直面していることは事実です。私はそれを隠すつもりはありません。しかし同時に、私は信じています。かつて「北のウォール街」を創り上げた街が、新しい時代の挑戦ができないはずがない、と。

皆さんにお願いがあります。もしお時間があれば、一度ゆっくりと色内通りを歩いてみてください。できれば、観光客としてではなく、この街に生きる一人の市民として。石の壁に触れ、建物を見上げ、港の方角から吹いてくる風を感じてみてください。

きっと聞こえてくるはずです。先人たちの足音と、そして——百年先の小樽を生きる人たちから、私たちへの問いかけが。

「あなたたちは、この街で何を残してくれましたか」と。

その問いに胸を張って答えられる仕事を、私はこれからも、皆さんと一緒に続けていきたいと思っています。

中村よしひろ

中村よしひろ

小樽市議会議員

1972年小樽市生まれ。市民の声を市政に届けるため、日々議会活動と地域活動に取り組む。小樽の歴史・文化・自然を愛し、住み続けたいまちづくりを目指している。