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小樽の歴史

小樽運河はなぜ生き残ったか

埋め立てられるはずだった運河

皆さん、こんにちは。小樽市議会議員の中村よしひろです。

観光客の方が小樽運河の前で写真を撮っている姿を、私は何度見てきたでしょうか。石造倉庫を背景に、ガス灯の灯る散策路を歩く——。今では「小樽といえば運河」というほど、まちの顔になっているあの風景。しかし、この運河がかつて「埋め立てられる予定だった」ということを、どれだけの市民の方がご存知でしょうか。

昭和41年(1966年)、小樽市は運河を全面的に埋め立てて6車線の幹線道路にする計画を発表しました。当時、港湾機能の中心は中央埠頭に移り、運河はヘドロが堆積し、悪臭を放つ「厄介者」になっていたのです。高度経済成長の真っ只中、「古いものは壊して、新しく便利なものを」という時代の空気の中で、その計画は決して奇異なものではありませんでした。

もし、あの計画がそのまま進んでいたら。今、私たちが当たり前のように眺めているあの景色は、存在しなかったのです。

10年にわたる市民の対話

流れを変えたのは、一人の青年の声でした。昭和48年、建築家の峯山冨美さんをはじめとする市民有志が「小樽運河を守る会」を結成します。「古い倉庫群と運河は、小樽の歴史そのもの。これを失えば、小樽は小樽でなくなる」——そう訴えたのです。

最盛期には会員1万人を超え、全国から10万人以上の署名が集まりました。当時の小樽の人口が約18万人だったことを考えると、これは驚くべき数字です。

しかし、話し合いは決して平坦ではありませんでした。「道路が必要だ」という市民もいれば、「運河を残したい」という市民もいる。賛成派と反対派が同じまちの中にいて、同じ食卓を囲む家族の中にすら意見の違いがあった——そう当時を振り返る方の話を、私は何度もお聞きしました。

対話を続けることの難しさ、尊さ

最終的に昭和58年、運河の半分(約40メートル幅のうち20メートル)を埋め立て、散策路とガス灯を整備するという「折衷案」で決着しました。保存派からすれば妥協であり、推進派からすれば譲歩でした。しかし10年間、まちを二分する議論を続けながら、それでも対話をやめなかった小樽の市民の姿勢こそが、私は本当の意味での「宝物」だと思うのです。

「残す」という選択が生んだもの

結果はどうだったでしょうか。

運河保存が決着した後、昭和60年代から石造倉庫群はレストランやガラス工房、博物館へと生まれ変わっていきました。平成の初めには年間観光客数が800万人を超え、小樽は北海道有数の観光都市へと変貌します。もし運河が埋め立てられていたら、おそらく他のどこにでもある「地方都市の幹線道路沿いの風景」になっていたでしょう。

ただし、ここで立ち止まって考えたいことがあります。観光客が増えたから保存運動は成功だった——そう単純に言ってしまっていいのでしょうか。

私はそうは思いません。保存運動の本当の成果は、観光収入ではなく、「小樽市民が自分たちのまちを自分たちで決めた」という事実そのものにあると考えています。行政任せでも、専門家任せでもなく、普通の市民が10年間議論を続け、まちの未来を選び取った。これは誇るべき市民自治の到達点です。

保存運動から私たちが受け継ぐべきもの

さて、今の小樽を見てみましょう。人口は11万人を切り、ピーク時の約半分です。空き家は増え、歴史的建造物の中にも維持できずに取り壊されるものが出てきています。かつての手宮線跡地、旧国鉄小樽築港機関区の建物、北運河周辺の倉庫群——。

「残すか、壊すか」の問いは、昭和の運河論争で終わったわけではないのです。むしろ、人口減少と財政制約の中で、より厳しい形で私たちに突きつけられています。

  • 登録有形文化財級の歴史的建造物のうち、所有者が維持管理に困っている物件が市内で複数確認されています
  • 相続を機に解体されるケースが近年増えています
  • 一方で、改修して活用した事例では、若い起業家やクリエイターが集まる拠点になっているところもあります

先人たちは、何を私たちに託したのか

運河保存運動の当事者の方々は、もう多くが鬼籍に入られました。私は何人かの方にお会いする機会がありましたが、皆さん口を揃えておっしゃったのは「残しただけでは意味がない。使い続けること、語り継ぐことが大事」ということでした。

「運河は勝ち取ったものじゃない。これからの小樽の人たちに預かってもらっているものなんだ」

この言葉が、今も私の胸にあります。

これからの小樽へ——私の提案

議員として、私は三つのことを進めたいと考えています。

一つ目は、歴史的建造物の活用支援制度の拡充です。保存だけでは建物は死んでいきます。改修補助の対象拡大や、所有者と活用希望者をつなぐマッチング機能の強化を、市として具体化すべきだと考えています。

二つ目は、「残す/残さない」の判断プロセスの透明化です。すべての建物を残すことは財政的に不可能です。だからこそ、何を優先するのかを市民と共に議論する場が必要です。昭和の運河論争がそうであったように、対話のプロセスそのものがまちの財産になります。

三つ目は、次世代への継承です。小樽の子どもたちが、運河保存運動の歴史を学校で学び、「自分たちのまちは自分たちで決められる」という実感を持てるような教育プログラムを、市として応援していきたい。

私が小樽を愛する理由は、美しい景色だけではありません。この景色を、普通の市民が議論を重ねて守り抜いたという「物語」があるからです。石造倉庫の壁の一つひとつに、ガス灯の明かりの一つひとつに、名もなき市民の声が染み込んでいる——そう思うと、散策路を歩くたびに胸が熱くなるのです。

運河は、ただの観光資源ではありません。小樽市民の「自治の記念碑」です。

あの時、諦めずに声を上げ続けてくれた先人たちに、私たちは何を返せるでしょうか。皆さんにも、ぜひ一度考えていただけたら嬉しく思います。そして、これからのまちづくりについて、どうか私にも声を聞かせてください。

小樽が小樽であり続けるために。

中村よしひろ

中村よしひろ

小樽市議会議員

1972年小樽市生まれ。市民の声を市政に届けるため、日々議会活動と地域活動に取り組む。小樽の歴史・文化・自然を愛し、住み続けたいまちづくりを目指している。